昭和四十五年二月二十三日 朝の御理解
X御理解第十三節 「神は向こう倍力の徳を授ける」 御理解第十四節 「神は荒れ地荒屋敷をお嫌いなさる」
昨日テレビで、沢山の歌謡曲の替え歌をやっておりました。そのところを一寸見せて頂いたんですが、その中でブルーライト・ヨコハマという歌が有りますが、それを、ブルーライト・横幅と歌っているのです。何気なしに聞いて居たんですけれど、今日その事を頂くのです。ブルーライト・ヨコハバ、
これは、私がその事から感じました事、ヨコハバというのは、横の幅という事でしょうねえ。ライトという事は明るいという事でしょうねえ。いわゆる、光り。
例えばですねえ、真っすぐに巾を狭く光りだけを送る光と、かさを広くして横へずーっと明るくなる光とがございます。いわ湯 る縦に光を使う場合と、それを横にも広く使う使い方があるでしょう。
ですから、私はその信心の光というものもですねえ、それこそ、ライト横巾であって、横の方へ信心の光がずーっと広がっていくという事。そういう意味の事だろうとこう思いました。
そして教典を開かせていただきましたら、十三節、十四節を頂くのです。そこでこれは、どういう様な事になるだろうか。神は向こう倍力の徳を授ける。
私共が十の力を持って神様へ打ち向うていけば神様は、それに対して二十の力を下さる。そこはもう、お蔭の世界ではなくて、徳の世界。ですから同じ十の力で向かうというても、只、十辺参りました、十辺拝みましたという様な事ではない。徳を受ける信心ですから。 私どん三年も参りよる、五年も参りよるから、という様な参りよるからだけではいけんのです。いわゆる倍力の徳を受けられる程しの信心なんです。だから十の徳を受けられる為の信心。
いわゆるここではもう、お蔭ではない。お蔭を頂く為に十年参ったというのとは違う訳です。お蔭を頂かにゃならんけん合楽に二十年も信心続けとりますというのじゃ違う訳です。
だからそこは、自ずと違うてくるのですよ。お蔭を受けるという事と徳を受けると言うことは、例えばそんなら私の信心でいうなら、何十年間と信心させて頂いておった。そのいわば、私が生まれてこの方終戦の頃までの信心は、永々と信心はしとりましたけれど、お蔭を受けんなならん、お蔭を頂かなならんという信心だった。そして、終戦この方こんな信心じゃいけない、こういう事では本当の人間の幸せにはつながらないと、悟ったところから、いうなら、終戦後私の信心が一変した訳です。
そして、これは力を受けなければならん、光を受けなければならん。
いわゆる、お徳を受けなければ人間の幸せは有り得ないと感じさせて頂くところから、今までの信心とは全然方向の違った姿勢、その構えが違うてきた。そこからいうなら、私は徳を受ける信心が、まあいうなら、終戦後が徳を受ける信心であり、何十年間の過去の信心は、お蔭を受ける信心であったという事になる訳です。
そうでしょうが。只もう参りよりさえすりゃあ、お徳を受けるという事じゃあ決してない。お供えさえしさえば、お徳を受けるということじゃ決してない。問題はその根本的なもの。
例えば、昨日の御理解から言うなら、本当にお道の信心の本質と言うものを分かってそこから信心が始められるという信心なんです。
どうでもひとつお徳を受けんならんと、それにはですねえ、いわゆる根本的に私のそんなら五十何年間という信心をです、半分半分に見る事が出来ます。
三十年余りは、お蔭を頂く為の信心、後の三十年余りはお徳を受ける為の信心と、もうはっきりと違うんです。目ざしが違うんです。
私は、神は向こう倍力の徳を授けるとおっしゃる。この例えば御理解をお互いが十の力でお参りしてくりゃあ神様は二十の力を与えて下さるという風に感じておりましたけれど、そうじゃあない。もう根本的に徳を受ける信心というのは、信心の何たるかを知って分かって御利益御利益とどもいうておるような信心じゃあいけないぞと、根本的にですねえ、信心の稽古をさせてもらう向きがかえられてしもうてから、という事になる訳です。
どうでしょうか、皆さん二十年間合楽に参り続けておられる方が、この中じゃ沢山ありましょう。けれども本気で徳を受けんならんという気持ちで、もしお参りがしてないなら、いうなら早速今日から向きをかえなきゃいけません。
勿論それは商売繁盛の事も願わんならんから、痛い痒いやら病気の事は願うちゃならんという事じゃない、それはやはり願います。けれども、その全然姿勢が向きが、いわゆる右向きから左向きのように違う。
だから成る程、お蔭は受けてきたけれども、お徳は受けていないという事になるのですけれども。神は向こう倍力の徳を授ける、ですから私共は、徳を受ける為の向きをしかもそんなら、十の力で向かうか、五十の力を持ってむかうかという事になるのです。
だから、百の徳をうけたいと思うなら五十の力を持って徳を受けていく事の信心がなされなければならん。%F%G私の信心のいわば六十年余りの信心を、三十年余りを本当にお蔭を頂く為に熱心という点に於いては一生懸命信心させてもらう、御用とかお供えとかいう意味に於いては、一生懸命させて頂いてきた。お蔭を頂かならんけん一生懸命参ったという信心なんです。そして終戦という大きな節に直面してです、初めて分からせられたもの、それはいわゆる、今までの信心ではいけない、これでは私共が永年かかって積み上げてきた外地での財産を置いて来なければならん、裸一貫で帰って来なければいけない。人間の幸福にはつながらない事がそこで分かった。
%Gそこで過去三十年間から、これからの三十年間というものは、私の言うなら、寒かっても、暑かっても夏服一枚時代であり、日に一碗のお粥さんを頂かせてもろうこの信心。
%Gこれはお蔭頂きたいから、そういう修行をしたのじゃない。もう本質的なもの、根本的なところからね。例えば、自分に着る資格はない、食べる資格はないといった様なところから、始められた訳なんです。自分という者を分からしてもらう。そこから、始められた信心。それがいうなら、徳を受けにゃならんと思うた訳じゃない。けれども、本当の人間の幸福というのは、御利益御利益という、お蔭を頂くという事だけでは人間の幸せにはつながらない。
%Gそこで、本当の幸せ、本当の幸福につながる事の為の信心する為に、自分という者を、いよいよ分からせてもらう。そこから食べる資格も着る資格もないという答えが出てきた訳です。
%Gそして今から思うてみると、ははあ、ああいう生き方こそがです。徳を受ける為に本当の姿勢をもって、神様の方へ向きを変えた信心であったという事を思うのです。
今は徳を受けとるという訳ではないけれど、けれどもやはり、ひとつの光りであり、力であり、そういうものを私自身、私の信心に感じます。
御理解第十三節 「神は向こう倍力の徳を授ける」とおっしゃる。本当に徳を受ける事の為にです、神様に向かわなければんならんという事をまずひとつ分からなきゃいけません。 そして今度は御理解十四節 「神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる」
勿論、荒れ地荒れ屋敷と言葉通りそのままの事、そうでしょう。皆さんの家の周囲の、例えば畑にでもすれば畑にでも出来る。庭にでもすれば庭にでも出来る所をです。只、荒れ放題に何にも使わんでおるという事は、成る程神様がお嫌いなさる事でしょう。そういう意味もお道の信心には分からなければなりませんが、私はこの荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるという事を、言わば、すさんだ心、荒れたおうちという風に頂かねばならんと思うのです。
皆さんの周囲を見てご覧なさい。世の中がいわゆる混沌としておる、荒れ地も同様に世の中はすさびきっておる。
私はそれを本当に最近、本当に人間の言うなら、良心と言ったものが地に落ちてしまってるなあという事を感じるのです。
交通事故に見るが一番いいです。そういう例の多い事には驚くです。堤さんの遠い親戚に当たられる方が、息子さんが、リアカーにちょっとひっかけられて、ちょっと怪我をさせた。ところが、さあ十万、二十万という金をとられなさった。もう兎に角、これはもういかんというので、堤さんの所に来なさった訳です。頼みに来なさったから、お導きをして、この頃ちょいちょい見える訳ですけれども、もう怪我をしとるという人は早うからよくなっとる。それで病院の先生は、もう貴方はようなっとるけん帰って下さいというけれど、絶対帰らん。六十幾つかのお爺さんだったそうですけれど、日に二千いくらかずつもらわれる。薬代はもらわれる。遊んどって食べられる。その上、いろんな口実をいうては、何十万という金をとっとる。病院に行ってみればもうどうんしよらん。それでお医者さんにいうと、「ああた、もうようなっとるけん帰らんねと、たいがいにゃ言うばってんが、帰らんから」と言われるそうです。
しかもそういう事がね、多い事に驚きます。もう事故に会うたなら取らん者が損と、しかも遊び人のごたると使うてから脅迫してからでも取らにゃ損と、もう善人は震え上がってしまってね。これでうちの家屋敷はしまえたつじゃなかろうかと言うて、その不安におののく様な毎日を過ごして、夜もろくろく眠られんという人がある。
だから今度はそげな人達が又、事故にども会うと、うちもとらん者が損というごたる風にもなりかねないと思います。
もう本当に相身互い、お互い自動車持っとりますから、お互い乗り物を持っとりますからまあそれは、損害を受けた分だけは出してもらわんならんんけれどもお互いですよと、いったようなものがね。もう本当に見えなくなった、少なくなった。もう世の中がすさんでおる証拠です。大抵あの人はよか人という人でもです。いよいよ自分の身になってみると、取らん者が損という事になる。相手の困る事やら泣きよる事やらは全然考えん。
そういう世の中なんです。成る程そのように、世の中がすさんでおるという事、荒地荒屋敷であります。
そこで私は、ブルーライト・ヨコハバになってくるんじゃないでしょうか。信心の光というものがです、信心の分からない人達の上にでも、いくらかでもほのぼのとでもよいから、ほのかにでもよいから、その信心の光を横の方へ広げていかなければならない。私が助かる、私の家が助かるというだけではなくて、私の周囲が助かってくるという様なお蔭になってこなけりゃならんのじゃないでしょうか。
私は今日、十三節と十四節からブルーライト・横巾と頂いてそんなものを感じるんです。 昨日熊本の松村さんが、親子三人でお参りして来ました。この頃からお母さんが十三日会に来ておる間、帰ったら子供さんが交通事故に合って、病院にかつぎ込まれたところじゃった。それで早速電話でその事のお願いがあっておりました。
ところがまあ、大変お蔭頂きましてから、たいした事もなくお蔭頂きましたという、そのお礼の参拝であった。それと同時に今度新しい車を買わせて頂きましたので、そのお祓いをお願いしますという事であった。
それで私はその事のお願いをさせて頂いて、お祓いをさせて頂いて御神米を車に対して下げなければならんから、その御神米を下げさせて頂こうと包んでおりましたらねえ、頂きます事がZ『交通安全は和賀にあり』と頂きました。交通安全は和賀心にありではなくて、交通安全は和賀にありと。私はこれを頂きましてから、金光様の信心の横幅の広いのに驚きました。今日の御理解でいうなら・・・・
皆さんが和賀心を求めて一生懸命信心なさるが、和賀心にならなければ、交通安全のお蔭がうけられないというのじゃなくてから、和賀心ではなく和賀という事。和賀心は中々難しいが、和賀とこれを思えばお蔭になる。
金光様を思うただけで、本当に信心させて頂いて和の心を頂かにゃならん、喜びの心を頂かにゃならんと中々それが頂けん、頂けんけれどもこれを頂かにゃならんと思うただけでいいという事。和賀心にならんでも、交通安全は和賀にありと。
だから私は御神米にそのことを書いてから申しました。その方達はガソリンスタンドを経営しとります。ですから私が松村さんに申しました。金光様の信心ちゃこげんいわば有り難い、こげんならなければ、こげんしなければお蔭にならんというのではなくてです。そうせんならんと、そうあらなければいけんと思うただけでお蔭になる神様なのだ。
そこで、あんたん所へ毎日油を入れに来なさる沢山のお得意さんが有るだろう。だからそのお得意さんに、御神米を一体ずつ差し上げてそして、信心せるじゃなくて、この和賀という事だけを思い出してもらい、自動車に乗るたんびに、その事を考えただけで交通安全は間違いないから、どうでも交通安全のお蔭頂いてまらわんならんから、御神米を車の中に頂いときなさい。というてお得意さんに上げる程しの信心をひとつ頂きなさい。この次の十三日会にお参りして来る時にはひとつ少しまとまった御神米を、頂かれる位のお蔭を頂きなさい、というて申しました事ですけれどもね。
こういう例えば、信心の在り方という事。いよいよ私共が信心を縦に頂いていくだけでなくて横に頂いて行くという事が感じられます。
これは松村さんだけの事じゃありませんよ。皆さんたちの周囲にも沢山そういう意味に於いてならです。参らにゃならんとか、和賀心にならにゃならんとかとか、と言うと中々信心な難しかばってん、和賀心という事、和らぎ賀こぶという事だけです。その事を思っただけで、お蔭が受けられるという信心だという事は、私は横に広がっていく事じゃないかと思う。
それこそ、ブルーライト・ヨコハバでしょう。信心の光が横へ広がっていく、それは成る程ぼんやりしたもの薄い光では有りましょう。けれどもそこにですねえ、自分の周囲にいわば、荒地荒屋敷を感じさせてもらうならです。その自分の周囲の荒地荒屋敷が何とはなしにきれいになっていく、清まっていく、耕されていく、種が蒔かれていくという様にです。私はそうゆう働きの一部になる事ではないかとこう思います。
昨日私はその松村さんに申し上げました。そういう程度の信心でも・・・、けれどもね今はそれが本当に必要である時代であるという事なんです。
いわゆる和賀心時代に先駆けて、そういうひとつの運動がね、信心させて頂く者の間から、起こらして頂かねばならないという事です。自分さえよかりゃよか、自分の一家さえよかりゃよか、信心を深く頂きさえすればいいという事ではなくてです。
そこで私はこう思いますねえ。そんなら神は向こう倍力の徳を授けるという十三節は、どういう事になるかと言う事です。お蔭は和賀心にありと頂かなならんのです。
そうでしょうが。お徳を受けるという信心はそれでなくてはなりません。だからあらゆる修行させて頂いても、自分の心が本気で改まり、本気で磨かせてもろうてです、和賀心を求めぬいていくという信心。これがお徳を受けていくいわゆる神に向かう徳を受けられる為の神に向かう姿勢なのであります。
そうすると、十四節から今日頂きますと、どういう事になりますか、交通安全は和賀にありという事になるのではないでしょうか。商売繁盛は和賀にありという訳です。病気治しも災難よけもです。言うならこの和賀だけでいいのである。
只信心の熱情だけは持たなければいけせんよ。全然信心のない人に、この御神米をあなたの車にお祭りしといて下さい、そしてこの和賀だけは忘れてくださいますなよと、そうすりゃ参らんでん、拝まんでん交通安全は請け合いと言えれる程しの信心。
だからそういう信心の熱情は、いる事は要る、それが私は自分の周囲に荒地荒屋敷を感じて、手元の所から、自分のお得意さんの上だけでも祈らせてもろうて、松村石油店で油を入れた車に事故は無いと言えるぐらいなです、思えれる位な、いわば信心が必要になってくる訳ですよねえ。どうでしょう、そういう事になってきたら。
私が昔から田主丸のむつ屋さん達に言いよった、シーズンになりますと、どんどん婚礼衣装が売れる訳です。
だから値段は同じでも、むつ屋から婚礼衣装を買うたらです、絶対縁が崩れる事は無いという位なお蔭は、むつ屋さお蔭頂かにゃいけんですと、今もそうですが、昔から申しております。
だから本気でその気にならにゃいかんです。それが評判になる位に、兎に角、値段は同じでもむつ屋から買うた婚礼衣装を持たしてやるなら、決して破談になるといったような事は無い位な実力を表してゆかなければ駄目です。
為にはそんなら、婚礼衣装が売れるたんびに、それだけの祈りというか、さあ行きなさる時にこれだけの御神米は持って行きなさいよと言う位な信心がなからにゃ出来る筈がない。
そういう夢のようなと言わずに、私は信心とはですね、そういう有り難いお蔭がですね、本当に少しずつでも実現していく事だと思うのです。
もし例えば、むつ屋で婚礼衣装を買うた人が、離縁になって帰って来なさったというのがもしあったとするなら、むつ屋自体がそれこそ責任を感じて、私の信心が足りなかったからこういう結果になったと、本気でお詫びをするような信心から、私はそういうお蔭が頂けていくと思うたです。
例えていうとですよ、だから石油店だけの事じゃありません。そういう信心が私は自分の周囲に荒地荒屋敷を感じて、荒地荒屋敷がいくらかでも開墾されてくる、耕されるとか、そこに信心の種が蒔かれていくとかという事になるのじゃないでしょうか。
神様はそういうすさんだ状態、心、それをお嫌いなさる。今日は皆さんこの御理解十三節、十四節から私共が本気でお徳を受けさせて頂く、只神様に向かうてさえいきよれば、徳を受けるという事では決してない。徳が授けられる、徳が受けられる信心に向きをかえなければならない。本当に信心が分かる事の為の信心でなければならないという事ですね。 ですからいわゆる和賀心、その和賀心にお徳が受けられる。その和賀心を頂く事の為に打ち向かう、自分の心が向かう、そこに倍力の徳が授けられる訳であります。
そうすると、御理解十四節からいうとです、それ程しの事ではない。
言うなら、和賀心ではなくて、言うなら交通安全は和賀にあり、いうならお蔭は和賀にあり。それを思うたり感じたりしただけで、お蔭が受けられるという、ですからこれならば容易い。自分の隣近所にでも自分の知っておる限りの周辺周囲にもそれを広めていく、これが私はブルーライト・横巾じゃないだろうかと思うのですよ。、、
言うならだから、そういう縦につながっていく、お徳を受けていく、真一文字に進んでいくという一直線の信心。
私と皆さん、それが金光大神天地金乃神に通う信心、その信心がです、今度は皆さんの周囲にです、それはそのように深いものではなくても、浅い意味に於いてです、横につながっていく自分の周囲周辺の荒地荒屋敷につながっていく。
そこに私は、プラスという事になると思う、横、縦がです。
昨夜、若先生が御本部から帰って来ました。今度ペンクラブの方達の会合だったんです。いわば文書布教でもさせて頂いておるという教会の主だった人の集まりだったんです。新聞とか雑誌とか出している教会、いわゆる文書布教なんです。
例えばお参りが出来ない人の為に、本を読んでもろうたり、新聞を読んでもろうたりしてからでも、布教させて頂こうというような働きを持っておる教会の方達の集まりで、初めてそれに参会させてもらって、やはりそれだけの実力を持った人達の集まりでしたから、素晴らしい会合が出来ましたと言うておりました。
ですから、文書布教という事なんかは、横につながる信心だと思います。浅くても薄くても横へつながっていく信心、金光様の信心とは、と例えば文章の上だけでも分かっていく信心。 ですからやはり、これからの合楽は、やはり文書布教なんかにも力を入れなければならん事なんかを感じますし、同時に私共としてはです、本当に折角これだけの打ち込みをさせて頂くのですから、私の過去三十年間の信心であっては馬鹿らしい。
それからこちらの私の三十年間の信心、神様へ向かうその向かい方の根本のところがです、いわゆる本当の信心を頂く事の為のいうならお徳を受ける事の為の向かい方にならせて頂くところから、五十の力を持って向かえば百の徳が受けられるという信心にならせてもらう。
それを一直線に結んだら、いわゆる文書布教とか、交通安全は和賀にありという意味に於いての信心が横につながっていく、いわゆる横の荒地荒屋敷につながっていく、神様がお嫌いになる荒地荒屋敷が自分の信心によって少しでも潤うていく、ぼんやりとでも明るくなっていくならば、そういう働きこそが、世のお役に立たせて頂きたいという願いにつながることである
同時に十三節から頂くと、いわゆる和賀心時代というその和賀心をです、いよいよ自分の心の中に頂いていく、そういう信心こそがお徳を受けるんだと頂かなければなりませんね。どうぞ。